南京大虐殺史(日本版)
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第四節 南京失陥

一 日本軍による南京陥落

南京城がもう三面から囲まれ、情勢が危険に陥った現状の下で、唐生智南京防衛司令長官は勝手に撤退しては行けぬと厳しく各部隊を控えると同時に、市街戦を準備せよと命じた。甚だ困難で危険な状況の中で、南京を守衛する兵には確かに市街戦を行う準備と決心があったが、ただ危急の情勢の下で蒋介石の撤退令による全体撤退を決めた後、ついにその打算を放棄したのである。

蒋介石は長期抗戦を堅持するための必要な戦力を保持する、という戦略的視点に鑑み、12月11日に顧祝同第三戦区司令長官を通じて、南京守衛軍に撤退令を下した。同日の昼頃、顧祝同は唐生智に電話をし、「委員長はすでに南京守衛軍撤退せよと下令したから、早く浦口に来なさい。胡宗南に浦口で貴方を待たせるから。」と称したが、唐は、「多くのことは各部隊長にはっきり申し付けなければならない。できてから撤退する。でないと、これからの責任はだれが負ってくれる?」と答えた。顧が「情勢が緊急だぞ。」と強調したのに対し、唐は「早くとも明晩になってはじめて撤退できる。私、自分だけの命を惜しみ、部下兵の死活をかまわなくてはいけない。」(71)と返答した。

顧祝同の電話を受けて、間もなく蒋介石からの「真侍参」の撤退令を受けた。同令は「事上持ちけられないなら、時機を見て撤退してよい、もってよく整ってから反攻を図るべし」(72)という。数時間後、唐生智は再び蒋介石からの「真戌侍参」の撤退令を受け、令の内容は同じだ。そこで唐生智は、翌朝3時に羅卓英、劉興各副司令長官、周斕参謀長、寥肯参謀処長、譚道平参謀処一課長などを招集し、撤退問題につき商談をし、周斕参謀長に責任者として撤退令を作成すると命じた。

12日午後5時に、唐生智は唐公館で師長以上の校会議を招集し、羅卓英、劉興各副司令長官、周斕参謀長、佘念慈副参謀長などが出席した。唐生智は蒋介石からの二通の撤退令を朗読した。

唐生智は会議の終わりに、書面の撤退令中の一部の規定について口頭命令を下し、即ち、「87D、88D、74A、教導隊諸部隊は、包囲陣から全部突破できなかったら、汽船があれば長江を渡って滁州に集結してよい。」(73)唐の同口頭命令は南京保衛戦の結果には重大な影響をもたらすものである。というのは、それで長江を渡る部隊の数はやたらに5か師以上増やしたからだ。つまり元計で決められた「大半は包囲陣から突破し、一部だけ長江を渡る」という原則は、今では「大半は長江を渡り、一部だけは包囲陣から突破する」となってしまって、当時の運輸能力では絶対にできないことだ。包囲陣から突破する予定だった多くの部隊は、今度は悉皆江岸に殺到し、その数もなんと9か師、江岸には船舶はわずかであって、無秩序になってしまい、結局建制が崩れてしまった山ほどの部隊が江岸か城内に滞在していたので、その一部は俘虜となり、一部はしようがなく民間に潜入した。

撤退令が慌ただしく下されたので、一部の部隊は会議参加の通知さえ受けなかったし、出席した指揮官も戦場の情勢が厳重だから部隊の撤退を秩序正しく順調に指揮することもできなかった。ということで、大量の部隊は無秩序に江岸に集まり、我先に渡し船に乗ろうとしたり、泳いで渡ろうとしたりして、慘劇が多く発生した。

あらゆる守衛部隊の中で、ただ第2軍団は20余隻の民間船による連的輸送を得たので、それで全軍団は安全に撤退できた。同軍団は戦闘で死傷者の5097人を出したほか、りの11451人は全員江北に撤退した。(74)葉肇が率いる第66軍と、鄧龍光が率いる第83軍はともに広東軍であるが、撤退する際に「現地包囲突破」の命令に従って集結し、太平門と仙鶴門を由してまず江寧と句容などに辿り、最後は南安徽に到達して集団軍に回帰した。同両軍は途中で累次日本軍と遭遇戦を交わし、部隊は絶えず死傷を出したり、戦闘員が行方不明になったりして、終にはただ4000人近くった。統計によれば、南京防衛部隊という15万人もの大軍は、血戦と失陥後の殉難をて、約10万人を失って、ただ5万人だけは安全に後方に撤退した。(75)

12月13日に、日本軍は、南京東面の中山門、太平門、東南面の光華門、通門、武定門、南面の中華門、雨花門、および西面の水西門、漢西門各門を占領した。

中山門方面では、13日未明、日本軍は第16師団歩兵第20聯隊は戦闘なしで中山門を占領し、城門に白くて太い字で「昭和12年12月13日未明3時10分、大野部隊占領」(76)と書いた。まもなく、日本軍第9師団歩兵第35聯隊は、13日朝中山門左側にある日本軍の砲撃で崩れた城壁の突破口から城内に突入した。中山門北面の太平門は南京のもう一つ重要な城門である。太平門を堅守する部隊は教導隊の一部であり、同門攻撃部隊は日本軍の第16師団歩兵第33聯隊である。12月12日に、激戦をへて、歩兵第33聯隊は紫金山の頂上を占領し、さらに「歩三三作命甲第129号」により引きき天文台と太平門へ攻撃する。その「戦闘詳報」では、「13日朝7時30分ごろ、第二、第三各大隊は相次いで天文台高地を占領した。同日午前9時10分に第二大隊の一部(第六中隊、機関銃小隊、工兵小隊)は太平門を占領し、日章旗が高く城門の上を翻った」(77)と記す。

光華門方面では、12月12日の夜、光華門を堅守する中国軍は々と撤退を開始した。13日未明、日本軍は再び光華門に突撃した。日本軍の「歩兵第三十六聯隊戦闘詳報」の記載によれば、13日未明の4時ごろ、光華門付近では「銃声が完全に停止し、投げてくる手榴弾もなかった。第一、第二各大隊はそこで数回にわたって斥候を垣に派遣し観察させ、敵のほどんどはすでに退却したと確認してから、第二大隊長は今突撃せよと下令した。」「朝5時に、連隊長は軍旗を捧げて垣に上がってきて、東方の皇宮に向かって遥拝をし、この時東方の空はすでにほのぼのと白み始めた。」(78)これで光華門は完全に失陥した。

中華門方面では、13日朝3時に、日本軍歩兵第13聯隊第1大隊第2中隊が突撃して、中華門西側の城垣を占領し、そして同大隊の主力は中華門西側約200メートル幅の垣を占領し、後部隊は雲梯をかけて猛烈な弾雨を冒して城壁を攀じ登った。13日朝5時ごろ、日本軍は中華門を占領した。南京城壁の西南角および水西門では、12月12日に、日本軍は「砲兵の主力の協力で、城の西南角にも徹底的に二つの大きな突破口を引き裂いたが、やはり城外の護城濠および付近にある敵軍の抵抗のために進めない。砲兵の数回にわたっての集中射撃後、午後4時45分に、歩兵第二十三聯隊第一大隊はついに垣を占領し、夜間はひきつづき垣の上で次第に戦果を拡大した。」(79)13日朝8時30分ごろ、日本軍第6師団歩兵第23聯隊第3大隊も水西門を占領した。なお、中華門東側の雨花門は南南京のもう一つの重要な城門であり、鉄道は同門をくぐって通過し、城の内外をつながる重要な通路である。12月12日に日本軍が雨花台一帯を占領した後、その第114師団は攻撃の重点を中華門方面の城壁および雨花門方面に保持し、しかも第115聯隊をして雨花門を攻撃する。12日午後、歩兵第115聯隊の一部は雨花門に突入したが、中国軍の猛烈な反撃のため足場は不穏であって、戦果拡大はできなかった。13日未明、日本軍は中国軍が漸次撤退しつつあることを発見したので、城内掃蕩を部隊に命じた。これで、日本軍は完全に雨花門を占領した。

図1-4 1937年12月13日に、日本軍の千葉部隊は秦淮河を渡って、中華門より入城する。
出典:『支那戦写真:上海戦

12月13日に、南京の東、南、西の各城門を占領したと同時に、迅速に部隊を派出し、南京城の東、西両面から下関へ進撃させた。それは、下関を占領することを通して、江を渡って北へ撤退しようとする中国軍の退路を切断し、中国軍を南京城下に包囲·殲滅しようという戦略的目標達成を期するものである。

東南京城では、13日未明、紫金山の北麓を攻撃中の日本軍第16師団は、歩兵第38聯隊を主幹とする佐々木支隊に下関攻撃の命令を下した。「支隊は今日(13日)引きき重点を左翼保持しながら、敵の中央を突破し下関方面に入るべし」(80)と。同令により、歩兵第38聯隊は軽型戦車を先頭に下関へ猛烈に攻撃をかける。同聯隊は午後3時ごろ下関の江岸に進攻め入り、中国軍の退路を切断した。歩兵第38聯隊が下関へ追撃すると同時に、13日午前、歩兵第33聯隊も、これから第16師団に直属し且つ下関へ追撃せよ、という命令を受けた。同聯隊第1大隊は13日午前8時30分ごろ紅山を占領すると、早速最近の路に沿って下関方面へ追撃を開始し、午後1時ごろ下関に進み出た。

西南京城では、日本軍第6師団は迂回して下関を包囲するため、早くも12月10日に「左翼隊は漸次兵力を西北方に移すべし、以て水西門及び漢中門を進攻するのを期する。配属の騎兵第六聯隊は、迂回している部隊を漸次下関一帯に進出させ、敵の長江渡りを阻止すべし」(81)と下関攻撃の命令を下した。11日に、第6師団の左翼の主力を担当する歩兵第45聯隊は水西門を攻める計だったが、同門外にはクリックが横しているので攻撃を順調には展開できず、そこで転じて下関方面へ攻め入った。13日朝、下関へ推進中の日本軍は上河鎮付近で、下関から戻り、正面から包囲突破を図ろうとする一万人ほどの中国の大軍と遭遇戦を交わした。同戦闘は極めて激烈であった。中国軍の方では死傷が想像以上であったが、日本軍も重い打撃を加えられ、日本軍歩兵第45聯隊第3大隊第11中隊長である大園大尉などは戦死し、数十人は負傷した。13日に、日本軍第6師団騎兵第6聯隊も中国軍と遭遇戦を交わした。即ち13日朝5時ごろ、同聯隊の戦闘部隊は水西門外から下関へ迂回して推進している途中、棉花堤付近で、下関から南へ包囲突破中の中国軍数千人と遭遇した。当時周りは闇で、薄霧も瀰漫しているので、遭遇戦は大分混雑した状態で、白刃戦もあったが、結局中国軍は損害が甚大で、已む得ず長江中の江心洲へ撤退した。日本軍の文献によれば、同遭遇戦における中国軍の死傷は約6000人であったという。(82)

13日の夜、第6師団歩兵第45聯隊と騎兵第6聯隊は下関に進み、先に到達した日本軍第16師団所轄部隊と会合した。このほか、12月11日に安徽省大平北面から長江を渡った日本軍国崎支隊は、長江の北岸に沿って浦口に進撃し、中国軍隊の抵抗を撃退した後、13日午後下関対岸の浦口を抜き、徹底的に中国軍隊の渡江による北への退路を切断した。

江陰、鎮江などいくつもの封鎖を突破した日本海軍第3艦隊第11戦隊は、旗艦=安宅号に率いられ、13日午後2時ごろ下関の江面に現れ、艦砲と機関銃で長江渡航中の中国軍隊及び平民に猛射をした。午後5時に、第11戦隊の艦艇は下関埠頭に到達した。(83)

図1-5 下関江面に到着した日本海軍の艦艇
出典:『支那事変写真全輯(中)』

12月13日に、日本軍上海派遣軍、第10軍の所轄部隊は、南京城外で東西両方から下関に攻撃し、下関対岸にある浦口を占領した。日本海軍第3艦隊第11戦隊の艦艇も下関の江面に出現して、長江を封鎖した。このようにして、日本軍は大体その既定の作戦目的、つまり中国軍の退路を切断しそれを南京城下に包囲殲滅する、という目的を達成した。

南京へ攻撃中、日本軍が平民と武器放棄の戦闘員への暴行の中で、最も甚だしきは「殺人試合」という野蛮な行為さえ現れた。

日本軍第16師団第9聯隊の向井敏明、野田毅少尉は、南京への進軍途中、人間性絶滅の「百人斬り競争」、つまり誰か先に満100人を殺したら優勝、という競合をした。同両校は、1937年11月27日に日本軍が無錫を陥落した時から試合を開始し、同月29日に常州到着時で、両校は計81名の中国人を斬った。日本の『東京日日新聞』社の海、光本、安田という3名の特派員は常州駅で同校にインタビューをした。11月30日の『東京日日新聞』は「百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人」を題に、それを初めて次の通りに報道した。

その第一に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。(84)

向井と野田が12月2日に部隊とともに丹陽県城まで進攻した時、その殺人の数はまた大幅に上った。特にこれまで後れを取っている野田方の数は一倍ほど増えた。同二人は今では延べ151人を斬った。12月4日に、『東京日日新聞』は「急速躍進 百人斬り試合の過」を題に、「殺人競争」を次の通り2回目報道した。

南京までに『百人斬りの競争』を開始した〇〇部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となった。(85)

12月5日に、句容前まで斬りけてきた向井と野田は、それぞれ89人と78人を斬った。二人の数の差もさらに縮小した。それで海と光本両特派員はさっそく本社へ「百人斬り」試合に関する三回目のニュースを打電した。『東京日日新聞』はまもなく「『百人斬り』大試合 勇壮!向井、野田両少尉!89∶78」を題に次の通り報道した。

南京をめざす「百人斬り競争」の二青年校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前に立って奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名という接戦となった。(86)

12月10日昼ごろ、向井と野田は南京東郊の紫金山の麓で再会した。この時二人の戦績はは106∶105であるが、しかし一体だれが先に100人目を殺したのか分からないから、改めて150人を目処にもう一回の斬り試合を開始した。『東京日日新聞』は「百人斬り超記録 向井∶106-野田∶105 両少尉延長戦を」を題に、そして佐藤振寿が常州城外で二人のために撮った写真もつけて、12月13日付の記事で「百人斬り」を次の通り4回目報道した。

南京入りまで“百人斬り競争”という珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田(前報の野田毅——引用者注)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五というレコードを作って、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した野田「おいおれは百五だが貴樣は?」向井「おれは百六だ!」……両少尉は“アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局二人はすぐに「ぢやドロンゲームと致さう、だれが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。(87)

向井と野田の「百人斬り」競争は、日本軍の南京へ侵攻途中の激戦を背景としたが、しかし二人の中で、一人は砲兵小隊長で、もう一人は大隊附けで、共に第一で突撃する普通の兵士ではないし、しかも際の戦闘中でいつも刀で敵の兵士を滅ぼすわけでもないので、同二人に虐殺された大多数の対象は手元には何ら抵抗手段もない百姓と武器放棄みの兵士だったことは明白であろう。向井、野田が帰国後それぞれ母校側に「英雄」として歓迎·要請され、後輩の学生らに「百人斬り」の「勇況」を講演した。

二 途中各地で犯した暴行

南京へ攻撃する途中で、日本軍は焼く、殺す、強姦する、略奪すること、何でもやり、南京近郊の各地区に、夥しい人命死傷と財産損失をもたらした。

無論、ここで指摘しておかなければならぬのは、日本軍の暴行は、単に南京近郊にあっただけではなく、その戦争行為にずっと伴われたものだ。は、华中方面軍が南京へ進撃する出発地としての淞沪(上海)地域から、日本軍はシリーズ的暴行を犯した。

1937年12月初め、日本軍第16師団は南京肉薄の先頭部隊として、丹陽より句容—湯山の間の地区に入った。第16師団の侵攻路と大体同じであった第3師団所轄の歩兵第34聯隊分隊長の曽根一夫の記述によれば、自分の部隊は句容付近のある村落で食糧を徴発する時、野呂など5名の兵士が行方不明になって、「そこで班長は夜に入って村民が全部寝入ったあと放火して村落全体を焼き壊そうと決めた。……深夜になって村民はみな寝入った時、われわれは土墙を超えていたところに放火したが、すぐに火勢が蔓延していき、四方八方へ飛び散らして、村落全体を焼き潰した。熟睡中から大火に起こされた民衆は、俺先に狼狽して逃げ出した。と、我々は隙をみて突撃を展開し、村民に遭うと殺し、ただ十数分間でもう誰一人動いている姿も見えなくなり、あちこちにと死体が散らばっている」(88)、という。

日本軍は12月6日に湯山北面の湖山村に入ってから、絶えず殺人したり、放火したり、娘を求めたりした。ただ8日という一日にでも、11名の村民が日本軍に殺された。村民の戴志善の回顧によれば、

旧暦の十一月六日に、村の東だったが、右は戴興雲の家で、左は戴大林の家で、両家の裏の排水溝の中に11人が隠れていたが、日本軍に捕まれて、戴氏宗祠の前に殺された。遭難者は戴昌(40歳余)、戴大林(50歳ぐらい)、戴大鈞(50歳ぐらい)、陳開栄(30足らず、その子は今健在)、王立栄(40歳ぐらい)、戴大金(50歳ぐらい)、戴興余(二十七、八ぐらい)、戴昌述(40足らず、その娘は安徽に嫁がれた)で、もう一人の遭難者はここに避難している職人である。王立栄が頭を斬られたほか、全員は銃剣で刺されて死んだのだ。(89)

という。

湯山鎮所轄の孟塘村と湖山村は同じ日に日本軍に占領された。孟塘村における日本軍の暴行は、同村民に悲慘な記憶をした。王賢珍(婦人)の思い出によれば、「冬月の初四(12月6日——引用者注)……二日間も爆弾を落とされた後、村は鬼子(日本軍——訳者注)に入られた。橋にいる数少なくない村民は爆弾に命を奪われた。家の若いおばちゃんと舅(44)は自宅に駆け戻ろうと、途中で鬼子に銃殺された。私は、ある張という五六十歳の年寄りとその五六歳の男の子がそのまま日本人に死ぬまで蹴られけたことを目撃した。夜になると、村民らは往々に村に戻って埋めておいた食糧を持ち出そうと思ったが、多くの人は途中で鬼子に殺された……鬼子が村に入ってから、花子さんを求め始めたのだが、協力しないと殺されるのだった。」(90)

12月8日に、日本軍は湯山鎮を占領すると、同鎮の周りにある村落でも暴行を施し始めた。村民の張礼海の思い出には、少女輪姦、村民慘殺などの日本軍によった暴行は、今でもはっきりと覚えている。彼は、「初六(12月8日——引用者注)の日の午後3時ごろのことだった。太陽が西へ傾き始めた時、七人の日本兵が湯山の山頂の砲台から下りて、臥牛山で16歳の少女を輪姦してから、松の枝を少女のアソコに挿しいれて殺した。その少女は張肖荘の人で、みんなから『大丫頭』と呼ばれたが。」それから同七名の日本兵は於右任別荘の地下の洞穴の入り口まで来て、洞穴に隠れている15人の村民に捜査を受けるようと命令したが、その場で勝手に同15人を殺した。(91)

上峰鎮は湯山鎮の南に位し、湯山鎮とほぼ同時に日本軍に占領された。同鎮の姚家辺村は日本軍の蹂躙を飽くまで受けた。同村民の陳恩貴は姚家辺における日本軍の強姦、虐殺、放火諸暴行を次の通り語っている。

旧暦の冬月初五(1937年12月7日)に、わが姚家辺に二人の鬼子が来た。鬼子の手には銃はなく、刀だけあった。同二人は陳起瑞の糟坊(酒工場)のドアを閉めて二人の婦人を強姦した。中の一人の婦人は酒工場にあるベッドに即死したが、もう一人の婦人は酒工場を逃げ出して、外で自殺した。この二人の鬼子は強姦を終えてから、村に隠れている外から避難に来た三十数人を一概に酒造り場に集め、一人一人と縛り、刀で殺した後、放火し酒造り場を焼き潰した。(92)

12月8日以後、日本軍の戦は紫金山から雨花台、江寧鎮に至るの内陣地にまで推し進め、その推進を伴う暴行の発生地点も、いよいよ城壁に接近していく。

戦争犯罪中国軍事法廷が「谷寿夫戦犯案判決書」の添付ファイル中の記載によれば、12月9日に蒋東旺、蒋海疇、蒋海洋、蒋海青ら4人の農民は向花村に殺された。12月10日に労働者の邵源嶺は窯湾街で、商人の王貴錫は言語不通の原因で能仁里第64号に殺されたほか、婦人の王孫氏は井二村に機関銃で射撃され死んだ。僧侶の道純は養回紅村に銃殺された。12月11日に農婦の尹陸氏は高輦村に銃殺され、小売りの董新福とその子の董志慎は鄧府山に日本軍が強要する財物を提供されなかったので殺され、農婦の賈紅英は賈家村に殺された、という。(93)12月11日に、城の西にある江東郷では一回だけで12名の村民が日本軍に殺された。それに、「1937年の旧暦の冬月初九に、四匹の馬に乗った日本軍が向こう側の運糧河からこちらの方へ来たのを見たが、うちの村人らはそれを見たらすぐ身を隠した。村に入った日本人が村には誰一人もないのを見て大声で叫んだが、後に13人の村民を龍王廟に連行した。中で彭二牛というものが逃げてしまったので、逃げた奴は中央軍の兵士だと日本人は認めて、りの12人を全員殺した。中にうちの三番目、四番目の叔父さんも入っている」(94)と、村民の朱広洪は語っている。

12月12日に、日本軍の暴行はさらに孝衛街—雨花台—双閘—三汊河というアーチ形の地区に延びた。「谷寿夫戦犯案判決書」の付録に記載されている散発虐殺事件に限ってみても、この日に同アーチ形の地区では120件発生し、計127人が殺された。中で、農民の殷寿江は孝衛街東洼村に、市民の曹文党ら7人は雨花台に、市民の胡長生ら6人は雨花路に、市民の李発来ら6人は沙洲圩にそれぞれ殺され、また平民の張得洪、陳老二、陳二子は双閘鎮25号に銃剣で、商人の張炳隆は上新河南街36号に、農婦の李徐氏と任氏は三汊河北圩村20号におのおの銃殺された。(95)僧侶の隆海は、「本人は長生寺の僧侶で、この目で南京近郊占領後の日本軍がうちの寺まで来て出家人計十九名を小銃で集団射殺したことを目撃した」(96)と語る。同日の夜6時に、日本軍は中華門外西街145号の市民の王福和、張書新、張馬氏、張玉根、張玉福、張小六子、張小狗子ら11人を悉皆銃殺したが、中でただ張玉発一人だけが負傷し、死ななかった。(97)同日に、日本軍は西羊巷で煙と銃剣で、地下の洞穴に隠れている村民のうちの22人を殺した。(98)

三 英米の艦船に対する襲撃

南京攻撃が全面に展開した後、同城陥落直前のことであったが、中国軍が船で逃れる退路を断つため、日本軍機はアメリカの艦船を爆撃それを沈没させたことと、イギリスの軍艦を砲撃したこと、という厳重な外交事件があった。

すなわち、12月12日午前、南京上流20キロのところに泊まっているアメリカ砲艦のパナイ号は、日本軍の軍艦から絶えず砲撃されたので、被爆される危険を避けるため、パナイ号はさらに上流へ移動を開始した。10時ごろ、同艦は約30名の武装たっぷりの日本軍兵士の脅威と邪魔をかけられた。後にパナイ号は南京上流43キロのところに停船した。この時点、同艦上には兵計59人あり、中では大使館の役員は4人、及び英、米、伊諸国の新聞記者と社員ら10余人あった。艦上は何枚ものアメリカの国旗が掲げられている。同日の午後、日本機は数回にわたってパナイ号およびモビール(Mobil)社所有の三隻の商船を爆撃·掃射し、ついに「パナイ号」および商船の「米平号」と「米霞号」を撃没した。

パナイ号被爆事件の中で、4人が死亡、3人が重傷、12人が軽傷であった。死亡の4人はイタリア記者のサンドリ(Sandro Sandri)、米霞号のカルソン(Carlson)船長、エンスミンガ(Charles L.Ensminger)上士、フルセバス(Edgar C.Hulsebus)舵手であった。(99)

日本軍機が米艦パナイ号とその付近にある商船を爆撃する同時に、日本軍第18師団配属の野戦重砲第13聯隊も、橋本欣五郎大佐の指揮下で、12日午前蕪湖付近でイギリスの軍艦であるレディバード号を砲撃し、英軍の兵に多数の死亡を出させた。クレーギー(Robert L.Craigie)日本駐在英国大使はその広田外相宛ての照会の中で、「イギリスの領事、イギリスの陸軍武官およびイギリスの揚子江海軍少副参謀長らが搭乗するタグボートが蕪湖の江面まで航行した後、搭乗者はイギリスの軍艦レディバード号に登ろうとした時、同タグボートは日本側の機関銃に射撃された。……ほかに、イギリスの商船の綏和号も一発の砲弾に命中された。イギリスの軍艦の蜂号も現場にすぐ到着したが、同じく沿岸の砲兵に攻撃された。」しかし、橋本欣五郎は、次のように弁解する。「江にある一切の船舶に射撃せよ、との命令をうけた」、「いかなる船舶でも、江を移動するものさえあれば砲撃せよ、と」(100)イギリスの揚子江ロイヤル·ナビー(RN)の指揮官の報告によれば、レディバード号が砲撃されたあとの損害といえば、「一発の砲弾は左舷喫水31のところに当たった。燃料箱第3号に繋がっている燃料箱第2号には一つの穴ができた。水と油は混ぜあって、第31と第32との間の空間を浸した。巻き上げ機の蒸気管が破裂した。前甲板には四か所衝突を受けた。6インチの機関砲がばらばらに裂けて、ライフルが壊された。校の寝室と浴室も壊された。一発の砲弾は船室の甲板上のボイラーを壊した。ランエガンが左船88、89の位置に遭難した。」(101)という。

日本軍が南京攻撃の過程で、国際規則を無視し、公然と米英船に攻撃を加えた。事後日本が必要な姿態をしめし、善後の措置もとったが、しかし畢竟その後の対英米関係にはマイナスの影響をもたらした。

 


(1) 「国民政府定都南京宣言」(1927年4月18日)、中国第二歷史檔案館編『中華民国史檔案資料彙編』第五輯第一篇政治(一)、江蘇古籍出版社1994年版、第1頁。

(2) 「市政廳成立及劉市長就職紀」、『南京特別市市政公報補編』、1927年4月至8月、“紀事”、第1頁、中国第二歷史檔案館所蔵。

(3) 南京地方文献委員会編『南京』、1948年3月、第24頁、中国第二歷史檔案館所蔵。

(4) 国民政府行政院檔案、中国第二歷史檔案館所蔵、文書分類番号二(1)、文書番号9442。

(5) 南京市地方文献委員会編『南京』、1948年3月、第24頁、中国第二歷史檔案館所蔵。

(6) 南京市地方誌編纂委員会編纂『南京建置志』、海天出版社1994年版、第235頁。

(7) 南京市地方文献委員会編『南京』、1948年3月、第24頁、中国第二歷史檔案館所蔵。

(8) 南京市地方誌編纂委員会編纂『南京建置志』、海天出版社1994年版、第235頁。

(9) 「南京市政府関於難民遣送致軍事委員会後方勤務部公函」(1937年11月23日)、中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1987年版、第702頁。

(10) 中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1987年版、第705頁。

(11) 孫宅巍『民国史論叢』、江蘇人民出版社2010年版、第85—86頁。

(12) 孫宅巍『澄清歷史——南京大屠殺研究与思考』、江蘇人民出版社2005年版、第183頁。

(13) 張連紅「南京大屠殺前夕南京人口的變化」、『民国檔案』2004年第3期。

(14) 「首都警察廳為報告派員参加南京市難民救委員会經過情形致內政部呈」(1937年9月6日)、国民政府內政部檔案、中国第二歷史檔案館所蔵、文书分類番号十二(1)、文書番号4898。

(15) 中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第920—921頁。

(16) 中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第921頁。

(17) 世界紅十字会南京分会「民国二十六年至三十四年慈善工作報告書」、1945年、南京市檔案館所蔵、文書番号1024-1-34521。

(18) 「程瑞芳日記」(一)、『民国檔案』2004年第3期。

(19) 「世界紅十字会上海分会関於赴京辦理掩埋工作的報告」(1938年3月18日)、『檔案与史学』1997年8月第4期。

(20) [日]日本防衛庁防衛研究所戦史室著、齊福霖訳『中国事變陸軍作戰史』第一卷第二冊、中華書局1981年版、第5頁。

(21) 「臨参命第138號」(昭和12年11月7日)、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第4頁。

(22) 「松井石根陣中日誌」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第140頁。

(23) 「華中方面軍命令」(1937年12月1日)、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第22頁。

(24) 「日機昨進襲首都」、『申報』1937年8月16日、第2版。

(25) 「第一聯合航空隊戰闘详報」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第57冊『日軍文献(下)』、江蘇人民出版社2010年版、第783—785頁。

(26) 「第三艦隊機密第347號電」(1937年9月14日)、張憲文主編、王衛星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日軍軍方文件与官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第295頁。

(27) 「二聯空訓示第五號」(1937年9月17日)、張憲文主編、王衛星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日軍軍方文件与官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第297—298頁。

(28) 「首都天空大戰 我空軍迭奏奇功」、『申報』1937年9月23日付、第1面。

(29) 「敵機昨五次襲京」、『申報』1937年9月26日付、第2面。

(30) 「日機大隊襲京 中山門外至西華門大街貧民区域被炸慘不忍睹」、『申報』1937年12月6日付、第2面。

(31) 「完全掌握整個支那的制空權 空襲南京五十餘次」、『東京日日新聞』1937年12月18日、張憲文主編、王衛星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報導』、江蘇人民出版社2010年版、第244頁。

(32) 『蔣介石日記』、スタンフォド大学フヴァ公文书馆所蔵蒋介石日记のコピ一件。

(33) 劉斐「抗戰初期的南京保衛戰」、中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会「南京保衛戰」編審組編『南京保衛戰』、中国文史出版社1987年版、第8—9頁。

(34) 劉斐「抗戰初期的南京保衛戰」、中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会「南京保衛戰」編審組編『南京保衛戰』、中国文史出版社1987年版、第9頁。

(35) 『蔣介石日記』、スタンフォド大学フヴァ公文书馆所蔵蒋介石日记のコピ一件、1937年11月26日。

(36) 第三戦区司令長官部編「抗戰紀實」、中国第二歷史檔案館所蔵、文书分類番号七八七、文書番号3944。

(37) 「蔣介石致唐生智電」(1937年11月25日)、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第400頁。

(38) 「第三戰区南京會戰經過概要」、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第415頁。“A”、“D”はそれぞれ軍、師の意味である。第10軍は第2軍団のこと。

(39) 「中方作命第27號」(1937年12月4日)、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第24頁。文中の“小衛”につき、“似為孝衛街”と編纂者は注をつけている。

(40) 「南京衛戍軍戰闘詳報」、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第409頁。

(41) 「第二軍団京東戰役戰闘詳報」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛戰』、江蘇人民出版社2005年版、第152—153頁。

(42) 「第二軍団京東戰役戰闘詳報」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛戰』、江蘇人民出版社2005年版、第153—154頁。“R”は団のこと。

(43) 「陸軍第七十八軍南京会戰詳報」(1938年1月)、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第421頁。

(44) 「南京衛戍軍戰闘詳報」、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第409頁。

(45) 「第五十一師戰闘詳報」(1938年1月)、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第427頁。

(46) 「首都東南郊大激戰 我第一防務鞏固」、『大公報』(漢口版)1937年12月9日付、第2面。

(47) 「熊本兵団戰史——支那事變」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文献(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第418—419頁。

(48) 「軍事委員会侍從室第一处主任錢大鈞匯轉南京衛戍司令長官唐生智副司令長官羅卓英、劉興呈蔣委員長為衛戍南京未能持久守備自請处分報告」、秦孝儀主編『中華民国重要史料初編——对日抗戰時期』第二編『臨戰經過』(二)、中国国民党中央委員会党史委員会1981年9月印行、第224頁。

(49) 陸軍省新聞班編「支那事變經過概要」、張憲文主編、王衛星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日軍軍方文件与官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第25—26頁。

(50) 「陸軍第七十八軍南京会戰詳報」(1938年1月)、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第422頁。

(51) 「中方作命第34號」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第30頁。

(52) 「松井石根陣中日誌」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第147頁。

(53) 島田勝巳「步兵第三十三聯隊史——光榮的50年歷程」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文献(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第277頁。

(54) 「牧原信夫日記」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第602頁。

(55) 「步兵第三十三聯隊南京附近戰闘詳報」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第83頁。

(56) 「松井与山本对談」、『文摘』第11号、1938年2月。

(57) 「第九師団戰史」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文献(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第121頁。

(58) 「軍事委員会侍從室第一处主任錢大鈞匯轉南京衛戍司令長官唐生智副司令長官羅卓英、劉興呈蔣委員長為衛戍南京未能持久守備自請处分報告」(1937年12月24日)、秦孝儀主編『中華民国重要史料初編——对日抗戰時期』第二編『臨戰經過』(二)、中国国民党中央委員会党史委員会1981年9月印行、第224頁。

(59) 「第二軍団京東戰役戰闘詳報」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛戰』、江蘇人民出版社2005年版、第157頁。

(60) 「南京衛戍軍戰闘詳報」、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第412頁。

(61) 宮部一三「風雲南京城」、張憲文主編、王衛星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第33冊『日軍官兵回憶』、江蘇人民出版社2007年版、第42頁。

(62) 「鯖江步兵第三十六聯隊史」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文献(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第142—143頁。

(63) 宮部一三「風雲南京城」、張憲文主編、王衛星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第33冊『日軍官兵回憶』、江蘇人民出版社2007年版、第33頁。

(64) 西泽弁吉「我們的大陸戰記——步兵第六十六聯隊第三中隊的歷程」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第57冊『日軍文献(下)』、江蘇人民出版社2010年版、第712頁。

(65) 「陸軍第八十八師京沪抗戰紀要」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛戰』、江蘇人民出版社2005年版、第177頁。

(66) 「大分第四十七聯隊奮戰記」、張憲文主編、曹大臣編、羅文文、谷肖梅他訳『南京大屠殺史料集』第62冊『日軍第六師団官兵回憶』、江蘇人民出版社2010年版、第109頁。

(67) 譚道平『南京衛戍戰史話』、東南文化事業出版社1946年版、第69頁。

(68) 邱維達「淳化狙擊戰」、中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会「南京保衛戰」編審組編『南京保衛戰』、中国文史出版社1987年版、第150頁。

(69) 「熊本兵団戰史——支那事變」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文献(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第428—429頁。

(70) 「第五十一師戰闘詳報」(1938年1月)、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第428頁。

(71) 唐生智「衛戍南京之經過」、中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会「南京保衛戰」編審組編『南京保衛戰』、中国文史出版社1987年版、第4—5頁。

(72) 「南京衛戍軍戰闘詳報」、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第413頁。

(73) 「南京衛戍軍戰闘詳報」、中国第二歷史檔案館編『抗日戰爭正面戰場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第414頁。

(74) 「徐源泉致蔣介石密電」(1937年12月23日)、中国第二歷史檔案館所蔵、文书分類番号七八七、文書番号693。

(75) 孫宅巍『南京保衛戰史』、五南図書出版公司1997年版、第237—241頁。

(76) 「糸井手記」、張憲文主編、王衛星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日本軍方文件与官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第408頁。「大野部隊」は日本軍第16師団步兵第20聯隊のこと、聯隊長は大野宣明大佐であった。

(77) 「步兵第三十三聯隊南京附近戰闘詳報」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第85頁。

(78) 「步兵第三十六聯隊南京戰闘詳報」、張憲文主編、王衛星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日本军方文件与官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第167頁。

(79) 「第六師団戦時旬報第13、14號」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第274—275頁。

(80) 「佐佐木支隊命令」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第46頁。

(81) 「六師作命甲第81號」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第265頁。

(82) 「熊本兵団戰史——支那事變」、張憲文主編、王衛星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文献(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第433—434頁。

(83) 「支那事變帝国海軍的行動」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第336頁。

(84) 「“百人斬”競賽!兩少尉已超過80人」、張憲文主編、王衛星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報導』、江蘇人民出版社2010年版、第95頁。

(85) 「急速躍進 “百人斬”競賽的經過」、張憲文主編、王衛星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報導』、江蘇人民出版社2010年版、第112頁。

(86) 「“百人斬”大比賽勇壯!向井、野田两少尉!89∶78」、張憲文主編、張生他編、雷国山他訳『南京大屠殺史料集』第34冊『日本軍国主義教育·百人斬與駐寧領館史料』、江蘇人民出版社2007年版、第21頁。

(87) 「“百人斬”超記錄 向井:106-野田:105 兩少尉進行延長戰」、張憲文主編、王衛星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報導』、江蘇人民出版社2010年版、第212—213頁。

(88) 「日軍士兵曾根一夫〈私記南京大屠殺〉」(節錄)、中央檔案館、中国第二歷史檔案館、吉林省社会科学院共編『日本帝国主義侵華檔案資料選編·南京大屠殺』、中華書局1995年版、第995頁。

(89) 「戴志善口述」、張憲文主編、張連紅、戴袁支共編『南京大屠殺史料集』第26冊『幸存者調査口述(中)』、江蘇人民出版社2006年版、第867頁。

(90) 「王賢珍口述」、張憲文主編、張連紅、戴袁支共編『南京大屠殺史料集』第26冊『幸存者調査口述(中)』、江蘇人民出版社2006年版、第888頁。

(91) 「張禮海口述」、張憲文主編、費仲興、張連紅共編『南京大屠殺史料集』第27冊『幸存者調査口述(下)』、江蘇人民出版社2006年版、第1182—1184頁。

(92) 「陳恩貴口述」、張憲文主編、費仲興、張連紅共編『南京大屠殺史料集』第27冊『幸存者調査口述(下)』、江蘇人民出版社2006年版、第1218頁。

(93) 「谷寿夫戰犯案判決書附件関於分散屠殺部分統計節錄」(1947年)、中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第322頁。

(94) 「朱廣洪口述」、張憲文主編、張連紅、張生共編『南京大屠殺史料集』第25冊『幸存者調査口述(上)』、江蘇人民出版社2006年版、第144頁。

(95) 「谷寿夫戰犯案判決書附件関於分散屠殺部分統計節錄」(1947年)、中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第291—348頁。

(96) 「日軍在長生寺集体殺害市民的調查表節錄」(1946年7月20日)、中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第291—348頁。

(97) 「谷寿夫戰犯案判決書附件関於分散屠殺部分統計節錄」(1947年)、中国第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第165頁。

(98) 「孫育才口述」、張憲文主編、張連紅、張生共編『南京大屠殺史料集』第25冊『幸存者調查口述(上)』、江蘇人民出版社2006年版、第57頁。

(99) 「美国亞洲艦隊司令(亞內爾)致国務卿」(1937年12月23日)、張憲文主編、楊夏鳴編、楊夏鳴、張志剛共訳『南京大屠殺史料集』第63冊『美国外交文件』、江蘇人民出版社2010年版、第250—251頁。

(100) 「克萊琪大使致廣田外相的照会」(1937年12月30日)、張憲文主編、曹大臣編、雷国山他訳『南京大屠殺史料集』第67冊『東京審判(=東京裁判)日方文献及報導(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第33—34頁。

(101) 「日軍對英国皇家軍艦瓢蟲號(=「レディバード号」)的攻擊」(1937年12月14日)、張憲文主編、張連紅、陳謙平編、仇蓓玲、秦文華他訳『南京大屠殺史料集』第31冊『英国使領館文書』、江蘇人民出版社2007年版、第22頁。ランエガンは「レディバード」号の碇泊助手担当であった。